新社会人にっき

大学生活が終わりましたので思い出をつらつらと書いていこうと思います

4年の成果

ポスドクというのが言葉の意味そのままにとらえるならば、博士号を取ってお仕事してればみんなポスト・ドクターなんですけれどもやっぱり自律的に研究してるヒトがポスドクと呼ばれてしかるべきだと思います。

結局のところバイオ系ポスドクの一部はそういう意味では高級?高給?テクニシャンに過ぎないのではないか、という話もあって、私は古巣の先生と一緒に研究した4年間のポスドク生活で最後まで自分がきちんとした研究者としてやっていけているとは思えませんでした。

 

それにはいくつか理由があって。

もちろん自分の能力のなさが一つ。研究分野のフォローをしきれていない、というか分野自体が細分化していて重箱の隅的な内容だということ。それをきちんと抑えて、なおかつ最先端であり続けるのがPh.Dというかポスドクに求められることなんですけども。。

 

それから、所属分野がちょっと特殊だったこともあります。

大学と企業が折半してお金を出して、その成果を商品へと繋げる。

このキーワード書くとひょっとすると身バレするかも、というようなフレーズですが

Best drugs on best science

というのがキーワードなのでした。

分野立ち上げの頃は当時ホットだった研究内容をテーマにした先生がいらっしゃって、企業のサラリーマン研究者が准教授身分として来られていたので共同研究をしていたりしました。

新しい研究スペース、立派な機械、潤沢な予算、研究開発の未来の姿がそこにはありました。

そのかわり、シビアに進捗を報告します。

最初の頃はスタッフ(准教授や助教)が数ヶ月に一度の発表をしていたのですが、そのうちトップの意向でポスドクも発表に参加することになりました。当たり前ですか?ですよね…一年くらいはヒマでヒマで仕方なかったものです。

進捗報告会では特に企業からいらっしゃってる主任研究員や研究所長クラスの方のツッコミが鋭くかつ厳しく思えたものです。

サイエンスとしての純粋さ、成果や結果の美しさは基礎研究者なら誰しも求めるところだと思うのですが、クスリになるかどうかとはまた別の問題。実用可能性とそこに至るタイムテーブルを厳しく問われます。

今の私ならば、当時の企業研究者の質問の意図や意識は痛いほど分かるのですが、当初は相当面食らったものでした。

だって、知らないですもん。普段使うものなんて細胞とか動物実験とか、せいぜいが臨床研究のサンプル。ヒトに使うためのグレードなんて、考えたことありませんもの。

そのためにどんなことが必要かを考えるのは、企業の方のパートですから。

端的に言いますと、クスリになるにはまだまだ遠い道のりだろうな、と感じるのです…

プロジェクト自体は10年。既に半ばを過ぎました。

ロードマップの達成度はどうあれ、それぞれの先生が論文を出し、特許を取ったり、人によっては栄転し、あるいは開業や臨床に戻り…

といっても、今残っている人、新しくきた人にとっても今後険しい道のりであることは確かです。

震災のおかげで予算が削られて、とかそういうのじゃなくて、そもそも、成果がなかなか出せないんです。

論文や学会で発表をし、それを成果として科研費その他申請書を書いて、競争的資金を獲得する。

それが、難しかったのです。企業ですから、特許や知的財産の扱いがとても厳しくて。

管理はしっかりして頂けるので楽は楽なんでしょうけどね。

ちなみに私がコアとしてやっていた研究テーマは上司である准教授のライフワーク的なものなのですが、知財部からなかなかゴーサインが出ず結局今に至るまで論文の形として出せていません。

従って、学会に行くことも難しく、また、論文が出ていない=成果がない=科研費も書きづらい、という負のスパイラルw

それをふまえて、上司も高分子や有機などバケガク方面へ色々と(共同研究含めて)手を広げていたのですが、つまみ食い的なそれではどうにも成果をまとめるのは難しく、私自身も勉強が追いつきませんでした。それでも2本(4年で、たったの!)出せたのだから良かった方なのかも、しれませんけど…

 

そして、上司のやさしさに甘えてしまったこと、受け身になってしまったことでしょうか。

子持ちであることの事情を最初からご存じで、なおかつポスドクになって数ヶ月後には二人目妊娠が判明してしまったにもかかわらず産休&育休を(まあ当然の権利といえばそれまでなんですが)取らせて頂きました。

予定日2週間前まで10キロの水を抱えるなど他のニンプには正直オススメ出来ないような働き方でえっちらおっちらウロウロし、実家に帰って出産、3ヶ月で保育園に無事入園するまでガッツリお仕事を休ませてもらえたのは、まあ大学という環境や他にスタッフがいないから仕方なかったとはいえホントにご迷惑をおかけしたと思います。

(ちなみに復帰したらテクニシャンの方をひとり雇用されていました。彼女にも本当に助けて頂きました)

 

また、上司が学会はあまり好きじゃなかったことや英語を大変得意とする方だったことも結果自分の成長を阻害してしまった気がします。

国内の学会には「まー今年はあんまり発表する内容もないよね」と言って出ず

英語の勉強を強く勧められはしたものの、「論文は僕が書くから」とmaterials&methods以外は大幅に赤を入れられ作文どころの話ではなくなりほぼ校正担当、といった感じになってしまったり…

それは楽ではあったんですけれど、やはり学会や論文は自分の交流の幅を広げたり能力を高める上で、一人前の研究者としてやっていくならば当然に必要なものだったと今でも(当時も思ってましたが)思います。

 

このラボでの生活が2年を過ぎる頃から、徐々に転職を考えるようにはなりました。

アカデミアは年齢や成果、ダンナ子ども持ちとしてはなかなか厳しいかもしれない。

では企業はどうだろうか。

そんなところからの就職活動(超ぼんやり型)スタートです。