新社会人にっき

大学生活が終わりましたので思い出をつらつらと書いていこうと思います

ポスドクやめたバイオ系博士だけど何か質問ある?

なんていうスレッドを立てたことはないしその予定もありません。

4年続けた某所でのポスドクをやめ、わたしはこの春から会社員となりました。

 

研究からの卒業、です。

 

 

あんまり詳しく書くと身バレしそうなのですが、それ以前に現在も過去も守秘うんぬんがありまして…

仕事内容は書けないにしてもわたしが落ちこぼれポスドクとしてどうやってきたのか、そこで何を思いどう行動して結果どこへ向かおうとしているのか、ある程度残しておきたいと思います。

客観的な事実として言うならば、行動しなかった、したとしても力不足だったから研究からは落ちこぼれたのですけれどもね。

しかしいうても院生時代も含めると12年間、いわゆる研究室、ラボという世界に身を置いていたわけですから(ながっ!)

今がんばっている人、これからがんばる人、がんばれなくなっている人、それぞれに何かしら読んで頂く価値のある代物ができるかもしれないと思います。

 

ポスドクとか博士何それおいしいの、という方は

http://www.youtube.com/watch?v=Liw1-Zjd-zo

古いですがまずはこちらで。

理系博士に限る、という感じではありますがおおむねこんな感じでしょうね。

特に私の出身分野はバイオ系と言うことで就職が厳しいというのがコンセンサスでしょうね。

 

昔ばなしをします。

2003年にわたしがはてなに登録した頃、はてなユーザは高学歴が多いwとか言われていました。

今はミニブログでの短文脳みそ直結ポストだらけのわたしも当時はまじめにブログを書いていこうと考えたりもしまして

はてなダイアリーを使い始めると大学院はてな、なんてキーワードがあり、そこで知り合った院生やポスドクの方もいらっしゃいました。(現在はほとんどお付き合いはありませんが……)

そんな方たちの論陣をいろいろと拝見し、はてなブックマークが始まると博士ポスドク問題に興味を持ちブックマークするようになっていきました。

といっても就職については大学などのサポートは一切なく、ポスドクや助手、公務員になる以外の選択肢は今よりも厳しかったと思われます。

当時、わたしは博士後期課程なかば。周囲では論文を書く、学会に行く、成果を出す、あるいは就職活動をはじめる人が大半のなか、長男出産後のわたしは大きな論文を出せるほどのデータもそろっておらず、研究室内ではかなり微妙な存在でした。

保育園は長時間預かって貰えるので研究室には来ていましたが、なかなか実験も進まずおそらくいつやめるのか、と思われていたでしょうね。

そんな中で、博士の生き方http://hakasenoikikata.com/というサイトに出会いました。

博士課程を修了後、社会人として働きはじめたwebmasterさんはわたしにはとてもまぶしい存在でした。

しかもサイト上で相談に乗って下さるというではありませんか。

そこで、わたしは初めてのキャリア相談をしました。

バイオ系の博士課程であること、企業への就職を考えていること、とはいえ前期課程のときも時期を逃しているし進学してもあまり成果を出せていないこと、など。

親身になって相談に乗って下さったwebmasterさんにご紹介頂き、人材紹介会社に登録しました。

リクナビからもいくつかエントリー。

使えるものは何でも使え、の精神で助教授(直属上司でもありました)には古巣の研究所所長を紹介してもらったり。

しかしどれも、今思えば恐ろしく未熟な面接なり書類で、「博士の学生は同年代の社会人と比べると研究はともかくそれ以外では劣っている」という評価に恥じないできばえだったように思います。うわー!じたばた。

とはいえ、それぞれ、多少の進展はありました。

企業での研究職で求められる資格以外のものについて、精神論だけじゃなく実際の人にお会いして伺うことが出来たり。

研究職の特定人材派遣会社というものを知ったり。(内定もらいました、といっても基本人が商品なので誰でも内定でそうですが…)

どこに飛ばされるか分からないとはいえ、まずはそこでやっていこうかと考えていました。話を聞いている限りでは派遣先で研究職の経験を積み、「優秀であれば」企業の直接雇用での研究職として中途採用を目指すことも可能であるように思えたのです。

 

でも、博士号がとれなかったのです。正確には、実験結果はおおむね出ていたのですが後少したりず、論文が出せず、結果として博士号の審査書類を出すことが出来ませんでした。

100にんのはくしむらにそのときのわたしはまだ入れていなかったのです。

そこで、どうしたか。

教員と相談し、一旦、単位取得退学をしました。

学費を払って留年したり、休学するよりもコストパフォーマンスが高いだろうと考えたのです。

それが2004年のことでした。

大学病院でテクニシャンとして、お給料をもらいつつ空き時間に自分の実験をする生活が始まりました。

一日6時間、週30時間、時給は1200円でした。

ガラス瓶を洗う、臨床検体を処理する、お医者さんの実験のお手伝いをする。

それだけです。

お給料をもう少しいただけたなら続けていたかもしれない、と思うほどにのんびりしていました。

同僚は専門学校卒の女の子。楽しいオタクライフを送っていらっしゃったことを懐かしく思い出します。

 とはいえ少し残っていた実験も進み、論文も書いては直され言われたところの修正を再修正され…などを繰り返し、ようやくそれなりの権威があった某雑誌に受理されました。

なんとかかんとか博士号審査の依頼を出し、公聴会の予定が12月に決まったところで

 

転んで、あごを骨折しました。

 

顎間固定され、ろくに喋れません。

予定されていた公聴会の日を一ヶ月ずらしてください、と主査の先生へもごもごお願いしに行ったときの冷たい目はわたしの今までの人生でトップ3にはいるくらいの低温でした。

なんとか公聴会終了。博士号を取得しました。

学年的には2年下(でも同い年)の義妹さんと同じ日に修了式となり、一緒に写真を撮ったのはほろ苦い思い出です。

 

ポスドク生活は、ここから始まりました。