入社半年経ちました
日々の慌ただしさにかまけてツイッターやハイクでゆるゆる過ごしているうちに4か月も経っておりました。
秋採用なのでしょうか、リクルートスーツの学生さんと思しき方もちらほら見られるようになってきましたね。
元気にカイシャイン、やっております。
慣れないなりにビジネスに使う文書を作り、調べ物をし、社内の人にプレゼンをし、出張をし、いつ元同僚に会うかとびくびくしつつなぜかもう二度と着ないだろうと思っていた白衣を着てたりもし…
人生何が起こるかわかりません、よね。
少なくとも、半年前の付け焼刃の業界研究は何の役にも立っていませんでした!
勉強不足というのもありますが、弊社wは私が思っていたよりもずっと、「へんな会社」だったのです。
それはもう楽しいことばかりじゃないし、残業してもしても仕事はてんこもりだし、自分のふがいなさにへこむし、この10年何をしてきたんだろう、って一応研究と実験をしてきたつもりですけどもっと普遍的に身につけられるものもあっただろう、なんて思ったりもしますが。
目の前の扉はとりあえず開けて入ってみる、そうやって広がる世界は間違いなくあります。
心と体を健康に保ちつつ、あと半年…新卒さんが入ってくるまで、を一つの区切りとして成長できるようにしていきたい所存です。
そして忘れないうちにシュウカツの記憶をまとめたい…
同情するなら職をくれ(前半戦)
って、言うほどシュウカツに励んだつもりはありません。
時系列順に少し整理してみます。
1.某製薬会社でポスドクとして初めてのシュウカツ@30代前半。
上司のセンセが寄付金をいただいていた企業での研究職求人を紹介してくださったのは某所ポスドク2年目の冬でした。いわく、博士も取っているから聞いてみてあげるよ、受けてみたら?
自宅から通える距離、誰もが知る、とまではいかなくてもその分野ではそこそこ知られている研究開発型企業、今の研究テーマからも遠くはない、
そういういたって消極的な理由でエントリーしました。
英語と、論文、それから役員さんの前でのプレゼン兼面接。今思っても冷や汗ものです。
一番のコアとなったと思うのは研究内容はともかくとして、リーダーとしてやっていけるのか?と言う質問でした。
ああ、そうだなあ、もう私はそちらに入るべき存在としてみられているんだ……
「今すぐに、というのは自信はありませんが是非挑戦したいと思います」
そんな風に応えたような記憶があります。
おそらくは、私の薄っぺらさなどお見通しだったのではないかと。
周囲との協調性や他人への指示、指導はともかくとして、教育に対する経験や成果を積み重ねて行きにくいのは特定や特任の研究員や教員にとっては不利な点だと言えると思います。
アカデミアだけじゃなくて、企業でも、いや、企業だからこそ一生一研究者として手を動かすのは難しい。
そうしたければノーベル賞でも取るか、割り切ってテクニックだけをお金に換えるか。二極化するのではないでしょうか。
ここのシュウカツの記憶は帰ってきてから高熱を出して3日間寝込んだことでほとんど飛んでいます。
2.登録・利用サイトもろもろ
最初のシュウカツ後は仕事が忙しいのと雇用が一応保証されていたこともあって、一年ほど研究に集中していました。
しかし、その間も絶えず求人情報には目を通し世間の動向をうかがいつつ、派遣会社にも登録していましたのでそのへんの情報もメールマガジンなどでチェックしたり一般的な求人情報をお勉強したり英語力を維持するためにちょこちょこ勉強したり。
お世話になっていたのは
- 言わずとしれたJREC-IN・・・地域指定で検索して眺めるのが楽しいです。ブラフっぽい求人を眺めてニヨニヨするなど暇つぶしにどうぞ。
- 研究職派遣のW社・・・電話での就業状況確認が面倒なのでメルマガだけちょうだい、って言ってました。
- 所属大学の求人情報ページ・・・またあそこのラボ、テクニシャン募集してるわー、とかそういう楽しみ方をw
- リクナビネクスト・・・メルマガは受け取らず、履歴書登録とwebコンテンツ閲覧メインで。コンテンツは勉強になりますが時間泥棒すぎて泣ける。
- Biotechnology Japan・・・日経BP社の老舗メルマガ。求人情報も微妙に。
このくらいでしょうか。
どのサイトをどの程度活用したか、はまた後ほど。
3.3年目の弱気
そうこうしているうちに、3年目の半ばにはいよいよ風向きが怪しくなってきていました。
直属上司と同期の先生方が、徐々に肩たたきをされているというお話です。
研究所を拡張したとはいえ、それ以上に新たな研究者が増えてテーマも広がり(正直プロジェクトのテーマからはむしろはずれた方向のほぼ基礎な研究内容のような方も…おや、こんなじかんにだれだry)
もともと私の上司を含むプロジェクト前半の研究者は第一期として終了していく時期だったのですが、クスリとしての実用化の可能性が低いテーマとその研究者をおいておく余裕がなくなってきていた、とはいえおいそれと行き先が見つかるわけでもなく、一年の猶予をもって、行き先を探すよう言われていたとも聞いています。
自分は一番実用に近いテーマだから実際にはどうにかなるだろう、とお気軽な上司の人でしたが、「いいところがあったらピャッとすぐに移っちゃった方がいいよ!」と言われ出したのもこの時期です。
相方には「もうあんた役に立たないからイラネ、って言われてるんだよ分かれよ」などと言われ続けていましたが実際問題私がいなければ(高給テクニシャン的なレベルだったとしても)ラボが回らない小規模研究室だったのでそこまでではないと思う…んですけど…(弱気)
そんなわけで、職探しの意識を若干高めつつも3年目が終わろうとしていた頃、東日本大震災が発生したのでした。
4年の成果
ポスドクというのが言葉の意味そのままにとらえるならば、博士号を取ってお仕事してればみんなポスト・ドクターなんですけれどもやっぱり自律的に研究してるヒトがポスドクと呼ばれてしかるべきだと思います。
結局のところバイオ系ポスドクの一部はそういう意味では高級?高給?テクニシャンに過ぎないのではないか、という話もあって、私は古巣の先生と一緒に研究した4年間のポスドク生活で最後まで自分がきちんとした研究者としてやっていけているとは思えませんでした。
それにはいくつか理由があって。
もちろん自分の能力のなさが一つ。研究分野のフォローをしきれていない、というか分野自体が細分化していて重箱の隅的な内容だということ。それをきちんと抑えて、なおかつ最先端であり続けるのがPh.Dというかポスドクに求められることなんですけども。。
それから、所属分野がちょっと特殊だったこともあります。
大学と企業が折半してお金を出して、その成果を商品へと繋げる。
このキーワード書くとひょっとすると身バレするかも、というようなフレーズですが
Best drugs on best science
というのがキーワードなのでした。
分野立ち上げの頃は当時ホットだった研究内容をテーマにした先生がいらっしゃって、企業のサラリーマン研究者が准教授身分として来られていたので共同研究をしていたりしました。
新しい研究スペース、立派な機械、潤沢な予算、研究開発の未来の姿がそこにはありました。
そのかわり、シビアに進捗を報告します。
最初の頃はスタッフ(准教授や助教)が数ヶ月に一度の発表をしていたのですが、そのうちトップの意向でポスドクも発表に参加することになりました。当たり前ですか?ですよね…一年くらいはヒマでヒマで仕方なかったものです。
進捗報告会では特に企業からいらっしゃってる主任研究員や研究所長クラスの方のツッコミが鋭くかつ厳しく思えたものです。
サイエンスとしての純粋さ、成果や結果の美しさは基礎研究者なら誰しも求めるところだと思うのですが、クスリになるかどうかとはまた別の問題。実用可能性とそこに至るタイムテーブルを厳しく問われます。
今の私ならば、当時の企業研究者の質問の意図や意識は痛いほど分かるのですが、当初は相当面食らったものでした。
だって、知らないですもん。普段使うものなんて細胞とか動物実験とか、せいぜいが臨床研究のサンプル。ヒトに使うためのグレードなんて、考えたことありませんもの。
そのためにどんなことが必要かを考えるのは、企業の方のパートですから。
端的に言いますと、クスリになるにはまだまだ遠い道のりだろうな、と感じるのです…
プロジェクト自体は10年。既に半ばを過ぎました。
ロードマップの達成度はどうあれ、それぞれの先生が論文を出し、特許を取ったり、人によっては栄転し、あるいは開業や臨床に戻り…
といっても、今残っている人、新しくきた人にとっても今後険しい道のりであることは確かです。
震災のおかげで予算が削られて、とかそういうのじゃなくて、そもそも、成果がなかなか出せないんです。
論文や学会で発表をし、それを成果として科研費その他申請書を書いて、競争的資金を獲得する。
それが、難しかったのです。企業ですから、特許や知的財産の扱いがとても厳しくて。
管理はしっかりして頂けるので楽は楽なんでしょうけどね。
ちなみに私がコアとしてやっていた研究テーマは上司である准教授のライフワーク的なものなのですが、知財部からなかなかゴーサインが出ず結局今に至るまで論文の形として出せていません。
従って、学会に行くことも難しく、また、論文が出ていない=成果がない=科研費も書きづらい、という負のスパイラルw
それをふまえて、上司も高分子や有機などバケガク方面へ色々と(共同研究含めて)手を広げていたのですが、つまみ食い的なそれではどうにも成果をまとめるのは難しく、私自身も勉強が追いつきませんでした。それでも2本(4年で、たったの!)出せたのだから良かった方なのかも、しれませんけど…
そして、上司のやさしさに甘えてしまったこと、受け身になってしまったことでしょうか。
子持ちであることの事情を最初からご存じで、なおかつポスドクになって数ヶ月後には二人目妊娠が判明してしまったにもかかわらず産休&育休を(まあ当然の権利といえばそれまでなんですが)取らせて頂きました。
予定日2週間前まで10キロの水を抱えるなど他のニンプには正直オススメ出来ないような働き方でえっちらおっちらウロウロし、実家に帰って出産、3ヶ月で保育園に無事入園するまでガッツリお仕事を休ませてもらえたのは、まあ大学という環境や他にスタッフがいないから仕方なかったとはいえホントにご迷惑をおかけしたと思います。
(ちなみに復帰したらテクニシャンの方をひとり雇用されていました。彼女にも本当に助けて頂きました)
また、上司が学会はあまり好きじゃなかったことや英語を大変得意とする方だったことも結果自分の成長を阻害してしまった気がします。
国内の学会には「まー今年はあんまり発表する内容もないよね」と言って出ず
英語の勉強を強く勧められはしたものの、「論文は僕が書くから」とmaterials&methods以外は大幅に赤を入れられ作文どころの話ではなくなりほぼ校正担当、といった感じになってしまったり…
それは楽ではあったんですけれど、やはり学会や論文は自分の交流の幅を広げたり能力を高める上で、一人前の研究者としてやっていくならば当然に必要なものだったと今でも(当時も思ってましたが)思います。
このラボでの生活が2年を過ぎる頃から、徐々に転職を考えるようにはなりました。
アカデミアは年齢や成果、ダンナ子ども持ちとしてはなかなか厳しいかもしれない。
では企業はどうだろうか。
そんなところからの就職活動(超ぼんやり型)スタートです。
奥様はテクニシャン
今回は、テクニシャンの話を。
テクニシャン、ていうとなんだかすごいことをできるような気がしますが、バイオ系ラボでのそれは要は雑用係です。
もちろん、研究経験があればそのぶん任せられる内容も多くなったり指導の手間も減ったりしますし、分かってる方がやって下さった方が綺麗な結果が出ることが 期待されますけど「ピペド」という言葉を引くまでもなく研究の一部はルーチンであり、きちんと教えてその内容を理解して下さる方なら学歴は関係ないとも言えるでしょう。
海外ではラボテク、なんて言っていて、何年も勤務し教授よりもラボ運営を知り尽くしてる方もいらっしゃったりするようなので すが、わたしの見た範囲では大学での直接雇用では一年契約の非常勤職員(技術補佐員、教務補佐員という身分が多かったです)で働く人が多いです。まして独立行政法人化してからというもの、「一年契約の雇用であっても更新は5年を越えて行うことはない」と求人の際に明記されていることがほとんどで、非常勤→ 常勤というルートはきちんとつぶしています。それに5年を越えても抜け道はごにょごにょ。。
派遣さんも多いです。交通費は出なくても残業が きちんとつけられて、直接雇用だと一日6時間だけど(契約によりますが)7-8時間働ける、会社によっては保険や福利厚生がしっかりしているというメリットがあります。あとは、はけんけんぽ、わたしがお世話になってた頃は良かったけど最近はどうなのかな…福利という点では大手のほうが良いかもしれませんね。習い事や資格試験の割引があったりするt社などはいかにもハケンの品格という感じがします。西日本はw社が強いようですが、t社も頑張っているようです。東日本ではr社が強いとかなんとか。
閑話休題。
さて、わたしの何度目かのシューカツは派遣会社を通してのテクニシャンということで決まりました。
某研究所での准教授の指導のもと、とある大きめの動物での実験のお手伝い、サンプル調製、機械での測定などなどを請負うものでしたが、P3レベルでのお仕事もあり、貴重な経験だったと思います。
研究室もこじんまりとしていて、学生と准教授や助教の先生との仲も良く、アットホームなよい空気で働くことができました。
ただ、大きめ動物にはなかなか慣れることが出来なかったのと、お金の出所がちょっとげふんげふん…
それでも、自分自身での研究テーマを持つことにも許可がおり、ひょっとしてポスドクとして直接雇用なんてことも来年以降にはあるかも…なんて甘いことを考えていたんですが、秋頃に教授選がありまして。
わたしの雇い主である准教授は退職した前の教授の弟子だったのですが、卒業後アメリカでずっとやってきた弟弟子が教授の座につくことになったのです。
なにやら雲行きが怪しくなってきましたねー、と思った方、正解。
いろんなことがあったようですが、ひとつだけ。
大きめ動物さんのお世話をするおじさんが技能補佐員(お給料ランク的には教務>技術>技能)としていらっしゃったのですが、この方が困ったさんでして。
日中来ない、勝手に夜中に来て深夜勤務手当てや残業代をゲットする、夜中なんて人がいないので来てはボイラー室の隅っこで寝ていたりすることもあったとか…でも長く(独法化前から)勤めていて労働組合員でもあるのでなかなか誰も強く言えないでいた方なのでした。
新教授はその方と丁々発止のやりとりをし、結果やめさせたと聞いています。
水清ければ魚住まず、ではありませんが、最近当時の同僚さんとお会いする機会があり聞いてみましたらずいぶんと研究室の様子も変わったとのこと。
研究室って規模にもよるのですが、ほんとにボスしだいでコロッと空気がかわってしまう側面があると思います。
わたしがその研究室をやめたのは、相方が無事研究成果をまとめたから…ではなく、再び前の上司が呼んでくれたのでした。
実は、研究テーマというのは大きめ動物でははっきり確立されていなかった手法を、前の上司が扱っていた手法を導入して試してみよう(分かりにくいですね、ごめんなさい)というものだったのです。そのことについて相談に行った折、上司が研究室から独立してラボを持つこと、そこでポスドクを一人雇えるのでどうか?と聞いてくださったのでした。
一も二もなく、その話を受けました。
そんなわけで、10-18時のまったりテクニシャン生活は終わり、いよいよ疾風怒涛、弱肉強食、空前絶後のポスドク生活へ足を踏み入れることになったのです。
うそです。(四字熟語部分は)
大学院は出たけれど。
はてなブログは下書き保存の上に自動保存が上書きされてしまうのですね。
書きかけだった奨学金とお給料のお話がさくっと消えてしまってしょんぼりです。
ともあれ、ご立派な学位記をいただいてなんとかはくしむらに入ったわたしでしたが初めてのポスドク生活は古巣のお隣の部屋で始まりました。
全くの基礎分子生物学から、ヒトの疾患と治癒をテーマにしうるやや応用的な世界へ。
分野としては非常にニッチで、学会に行っても同じような内容をやっている人があまりいない、そんな研究をしていた隣のラボ(大ボスはわたしの指導もしてくださっていました。従兄弟子という感じでしょうか)の先生が
「うちにきたらいいよ」
といって下さったのです。
いくつか離れた場所(といっても引っ越し不要な程度)や近くの研究所でのポスドク公募に問い合わせや書類も送りましたが、条件面とほぼ荷物を右から左へ移動するだけで済むという気軽さに惹かれて、そこのお世話になることになりました。
ちょっと癖のある人物ですが、陰口は言うにしても家庭環境を既にご存じで、子育てにもそれなりの理解があり、研究については1聞けば20くらいは返してもらえる(そして大体自分の話になる…)それでいてある程度の裁量を持たせて自由にやらせて貰える先生でした。
研究分野としては基礎から応用への橋渡しをめざし医師との共同研究もやっている、というところで自分自身の技術や分野の広がりに期待を持てた、ということもありました。
英語への意識はこの先生から受けた影響が大きいです。
まあ培った英語力もTOEIC730点と履歴書に書けた以外には今後はあまり使うことはないだろうと思いますが、論文を読んだりするのに困らない程度には保っておきたいところですね…
ここで10ヶ月がすぎる頃、大ボスに来年度は更新しない、と告げられました。
わたしの能力的な問題が一番にあったとは思いますが、お金の出所での問題(大ボスが取ってきたお金ですが実質研究内容を進めているのは直属の上司でした)でもあったようです。
ともあれ、わずか一年でもう一度就職活動をしなければならなくなりました。
まだ新たな研究内容が大して身に付かず、結果も出ていない、学会にも参加していない状態で。
やさぐれたわたしは相方の研究(彼の方が学年は下です)のこともあり、再びテクニシャンになることにしました。
ポスドクやめたバイオ系博士だけど何か質問ある?
なんていうスレッドを立てたことはないしその予定もありません。
4年続けた某所でのポスドクをやめ、わたしはこの春から会社員となりました。
研究からの卒業、です。
あんまり詳しく書くと身バレしそうなのですが、それ以前に現在も過去も守秘うんぬんがありまして…
仕事内容は書けないにしてもわたしが落ちこぼれポスドクとしてどうやってきたのか、そこで何を思いどう行動して結果どこへ向かおうとしているのか、ある程度残しておきたいと思います。
客観的な事実として言うならば、行動しなかった、したとしても力不足だったから研究からは落ちこぼれたのですけれどもね。
しかしいうても院生時代も含めると12年間、いわゆる研究室、ラボという世界に身を置いていたわけですから(ながっ!)
今がんばっている人、これからがんばる人、がんばれなくなっている人、それぞれに何かしら読んで頂く価値のある代物ができるかもしれないと思います。
ポスドクとか博士何それおいしいの、という方は
http://www.youtube.com/watch?v=Liw1-Zjd-zo
古いですがまずはこちらで。
理系博士に限る、という感じではありますがおおむねこんな感じでしょうね。
特に私の出身分野はバイオ系と言うことで就職が厳しいというのがコンセンサスでしょうね。
昔ばなしをします。
2003年にわたしがはてなに登録した頃、はてなユーザは高学歴が多いwとか言われていました。
今はミニブログでの短文脳みそ直結ポストだらけのわたしも当時はまじめにブログを書いていこうと考えたりもしまして
はてなダイアリーを使い始めると大学院はてな、なんてキーワードがあり、そこで知り合った院生やポスドクの方もいらっしゃいました。(現在はほとんどお付き合いはありませんが……)
そんな方たちの論陣をいろいろと拝見し、はてなブックマークが始まると博士ポスドク問題に興味を持ちブックマークするようになっていきました。
といっても就職については大学などのサポートは一切なく、ポスドクや助手、公務員になる以外の選択肢は今よりも厳しかったと思われます。
当時、わたしは博士後期課程なかば。周囲では論文を書く、学会に行く、成果を出す、あるいは就職活動をはじめる人が大半のなか、長男出産後のわたしは大きな論文を出せるほどのデータもそろっておらず、研究室内ではかなり微妙な存在でした。
保育園は長時間預かって貰えるので研究室には来ていましたが、なかなか実験も進まずおそらくいつやめるのか、と思われていたでしょうね。
そんな中で、博士の生き方http://hakasenoikikata.com/というサイトに出会いました。
博士課程を修了後、社会人として働きはじめたwebmasterさんはわたしにはとてもまぶしい存在でした。
しかもサイト上で相談に乗って下さるというではありませんか。
そこで、わたしは初めてのキャリア相談をしました。
バイオ系の博士課程であること、企業への就職を考えていること、とはいえ前期課程のときも時期を逃しているし進学してもあまり成果を出せていないこと、など。
親身になって相談に乗って下さったwebmasterさんにご紹介頂き、人材紹介会社に登録しました。
リクナビからもいくつかエントリー。
使えるものは何でも使え、の精神で助教授(直属上司でもありました)には古巣の研究所所長を紹介してもらったり。
しかしどれも、今思えば恐ろしく未熟な面接なり書類で、「博士の学生は同年代の社会人と比べると研究はともかくそれ以外では劣っている」という評価に恥じないできばえだったように思います。うわー!じたばた。
とはいえ、それぞれ、多少の進展はありました。
企業での研究職で求められる資格以外のものについて、精神論だけじゃなく実際の人にお会いして伺うことが出来たり。
研究職の特定人材派遣会社というものを知ったり。(内定もらいました、といっても基本人が商品なので誰でも内定でそうですが…)
どこに飛ばされるか分からないとはいえ、まずはそこでやっていこうかと考えていました。話を聞いている限りでは派遣先で研究職の経験を積み、「優秀であれば」企業の直接雇用での研究職として中途採用を目指すことも可能であるように思えたのです。
でも、博士号がとれなかったのです。正確には、実験結果はおおむね出ていたのですが後少したりず、論文が出せず、結果として博士号の審査書類を出すことが出来ませんでした。
100にんのはくしむらにそのときのわたしはまだ入れていなかったのです。
そこで、どうしたか。
教員と相談し、一旦、単位取得退学をしました。
学費を払って留年したり、休学するよりもコストパフォーマンスが高いだろうと考えたのです。
それが2004年のことでした。
大学病院でテクニシャンとして、お給料をもらいつつ空き時間に自分の実験をする生活が始まりました。
一日6時間、週30時間、時給は1200円でした。
ガラス瓶を洗う、臨床検体を処理する、お医者さんの実験のお手伝いをする。
それだけです。
お給料をもう少しいただけたなら続けていたかもしれない、と思うほどにのんびりしていました。
同僚は専門学校卒の女の子。楽しいオタクライフを送っていらっしゃったことを懐かしく思い出します。
とはいえ少し残っていた実験も進み、論文も書いては直され言われたところの修正を再修正され…などを繰り返し、ようやくそれなりの権威があった某雑誌に受理されました。
なんとかかんとか博士号審査の依頼を出し、公聴会の予定が12月に決まったところで
転んで、あごを骨折しました。
顎間固定され、ろくに喋れません。
予定されていた公聴会の日を一ヶ月ずらしてください、と主査の先生へもごもごお願いしに行ったときの冷たい目はわたしの今までの人生でトップ3にはいるくらいの低温でした。
なんとか公聴会終了。博士号を取得しました。
学年的には2年下(でも同い年)の義妹さんと同じ日に修了式となり、一緒に写真を撮ったのはほろ苦い思い出です。
ポスドク生活は、ここから始まりました。